んまおの日記

特にオチや解決があるわけではありません。勢いのままに書いてそのまま公開しているので文の脈絡が飛んでいたりしますが、悪しからず。

キャッチセールスに出会った話。

 

先日池袋の街を歩いていたんです。

その日全部で3回声をかけられました。

当時は平日、暇でショッピングのはしごをしようとフラフラしていたので気紛れにホイホイついていってしまいましたが、あれがキャッチセールスなどではなく人攫いや犯罪グループなどであったりしたらと思うと、本当に生きて帰ってこれて良かったと思います。

 

 

一回はサンシャイン通りで若手お笑い芸人のライブがあるから来ませんかとのこと。

まぁこれはキャッチセールスではなくたんに宣伝だと思うので今回はあんまり関係ない。

 

問題なのはその前にかけられたその日一回目と三回目。

 

一回目は、「サロンモデルを探しています」という呼び止めだった。

 

街頭で話を聞くと、フェイシャルエステのモデルを探していて、仕事の内容は1時間ほどのエステを受けてその施術中の写真を撮らせてほしい。これが使うか使わないかの判断は本人ができる。と。

以前モデルではないがフェイシャルエステの体験のようなことをしたことがあったのでなんとなく良いですよ〜と言ってついて行ってしまった。

 

怪しさ満点だが、街頭でキャッチをしていた女性は人当たりが良い人だった。

名刺も渡されて、調べたがどうやらその会社自体は存在するものである。

少し内容のお話をするので、と言って雑居ビルの一室に連れていかれた。

その一室を説明用の事務所にしているらしく、狭い部屋の中を区切って2箇所ほど机が置いてあり、そのうちの1つに座らされた。

 

内容は上記の通り、サロンモデルというようなことであった。今回のクライアントはフェイシャルエステなどを専門に扱う販売店

そこのモデルとして写真を何枚か取るという。

そして私もなんとなくだが、無料でフェイシャルエステを受けられるのならと承諾し契約書にも名前を書いた。

 

問題なのはこの先である。

謝礼として、先払いのギャラが発生したのだ。

もらった金額は「1,000円」

撮影した写真が採用されると追加でギャラが発生し、最大15,000円まで受け取れるという。

先払いのギャラという名で金を渡す事でより断りづらくしているのだろう。

私はなんだか怖くなって全てキャンセルし、後日に前払いのこの1,000円を返金した。

 

 

 

帰って調べると数年前から似たような事が結構行われており、フェイシャルエステまでは普通に受けられるが、そのあとモデルやタレントなどとしての才覚があるとおだてた後に「全身脱毛」を勧めてくるのだという。

 

撮られた写真が使われない保証は無いし、断れないようにされてしまったら意図しない全身脱毛により高額の金を支払う羽目になる。

これはいわゆるキャッチセールスに近いもので、直接的な悪徳商法ではないが非常に巧妙な手口であろう。

特に若い女を狙っており、若い人はとくに圧力をかけられてしまえば断れないのではないだろうか。

 

 

 

 

 

二回目は駅に向かって歩いてるところをどこから見ていたのか背後から近づかれ並走され、声を掛けられた。

 

街頭で声を掛けているが、新しいクーポンアプリのリリースを控えておりそれについてのペーパーアンケートを行っているという。

 

幸い強要はされなかったが、ノルマがあるという話であったのでアンケートに答えるだけなら良いかなと思い善意のようなもののつもりでついて行った。

 

また同じようにキャッチをしている少し先の路地にある雑居ビルに回答の部屋を設けており、アンケートに答えてくれた人にはトリートメントや美容系のものなどの謝礼的なものもあると言われた。もう怪しい。

 

これはいわゆる「お礼商法」というやつらしい。お礼商法とは、アンケートのお礼などとして相手に間接的に物を買わせるという手口である。

 

またこれが非常に巧妙な手口で、あの部屋に居た人たちや街頭のキャッチは涼しい顔で平気で嘘をつくのである。

 

こんなのペーパーでやらなくても良いだろみたいなアンケートに答えたあと、福引で当たったものを謝礼に渡してくれるらしく、福引のガラガラを回した。

本当にたまたまであったのだが、回したあと口が下を向いており、出てしまったら申し訳ないと思い、出口を上に向けようとしたところ2つ玉が出た。どちらも同じ色が出た。

 

では引き換えてきますね、と担当のお姉さんが裏に引っ込んだ。

何が当たるかというのは事前に教えてもらってなかったので、なんか変なお試し用のものとかかなと思っていると、お姉さんがハイテンションで戻ってきた。

 

なんと、

私が2つも出した同じ色の玉三等

その福引の中に3つしかないのだそう。

 

訳がわからんがまぁ話を聞く。

その三等というのは、

池袋にある医療脱毛を行なっているクリニックでの「レーザー脱毛で部位を選んで脱毛体験5回無料」の券だという。

 

お姉さん試してみたいものの中に医療脱毛って言ってましたよね?と担当のお姉さん。

言いました、検討していますと。アンケートの中にもあった。目立つ位置に、真ん中の方にその回答がくるように書いてあったなと今になって思い出す。

 

で、その無料体験の券は金券などと同じくらい貴重なものなので転売防止のために今QRコードを読み取って予約しちゃってください!とのこと。何いうとんねんという感じだがここまでの流れが完全に上手くいっていた場合騙されてしまうだろう。

 

ちょっと回して三等が2個も出る訳がない、おそらくあの福引の中は三等の色だらけだったのであろう。

で、読み取って予約をさせられた。一応仮予約という形だったので本予約をせずに済んでおり、行くことはなかった。

 

 

これ、結局医療脱毛がたったの5回で終わる訳がなく、そのあとの残りもうちでやっちゃってください!と本契約みたいなものを結ばせようとしてくる遠回しの商法である。

つまり、アンケートはダミーでこっちの医療脱毛をさせるほうが本題だったのだ。

笑顔で息を吐くのと同じように嘘をつく彼らに悪寒がした。

 

 

 

 

今回はこのような感じで、本当にただのキャッチセールス紛いのことであったので特に何もなく帰ってこれたが、これがキャッチセールスを偽った犯罪集団の犯行の一部であったとしたら非常に危険である。

非常に怖い思いをしたなと、今になって思うのだ。

基本的にサロンモデルなんか街頭で、しかも池袋なんかで探す訳がないし、ペーパーアンケートなんかやるなら実際にアンケート用紙持ってひたすら声掛ければいいじゃないか。

 

 

 

一度知っていたらお前そんなんも知らねーのかよと思うかもしれないが、ついていくとこういうことになるよという実体験のお話でした。

 

とくに街頭で声を掛けてくる人たちは、お姉さん可愛いですね〜美人ですね〜とか言って声を掛けてくる。いや自分ブスなんでそんなんないっすわ〜とか思っていても、彼らは息を吐くように嘘をつくので煽てられたついでについていってはいけない。

 

今思い出したのだが、ペーパーアンケートのキャッチをしていたお兄さんがビルまで案内する間にミンティアをくれた。

いくら人当たりが良いとはいえ、そのもらったミンティアが強力な睡眠薬や変な薬だったらと思うと怖い。

知識がなかったにせよ警戒心が足りなかったと思う。

 

都内や、都内でなくても今こういうことをしていると声を掛けられた場合その場で終わらなさそうな事であるならば何者にも振り向いてはいけない。

行ったとしても「自分は断れるから大丈夫」などと思わない方がいい。

いつ暴力を振るわれたり恐喝紛いの事をされるか分からない。

 

 

小さい頃、知らない人についていってはいけないよと教わったのは大きくなった今も変わってはいない。

皆さんは本当に気をつけて下さいね。

 

 

 

食の好み

今回は内容がまとまってないです

 

 

うなぎと梅干しを一緒に食べちゃダメとか、

寿司屋にガリがあるのは口直しの為と殺菌効果があるからだとか、

食べ合わせにはなんらかの理由があったりして非常に合理的だ。(うなぎと梅干しには医学的根拠はないらしい)

一方で、味の組み合わせとして

例えば肉料理と赤ワイン、魚料理に白ワインとかのワインで言えばマリアージュというような

大体この組み合わせは美味い

というような定番がある。

 

 

話は路線を変え

私はなんでも大抵は美味しいと思える。

例えば、コンビニ弁当もあれはあれでうまいと思うし、並んで紅虎餃子房の坦々麺も同じレベルくらいでうまいと思う。

 

 

私はいわゆる「不味いもの」が結構好きで、安い冷凍のチキンナゲットだったり30円くらいの缶のサイダーだったりを好んで飲んだり食べたりする。

定期的にこの「不味いもの」を食べたくなる。

 

しかし、自分でいうのもあれだが別に不味いものが好きなだけであれがうまいわけではない。

ちゃんと高い肉と安い肉の味の違いはわかるし出汁の香りの違いも好きだし、高い金を払って食べるレストランの料理もそれはそれとしてちゃんと味わって美味しいと思う。

 

 

なぜこんなことを思いついたのかというと、

小麦粉と青海苔を入れてだしの素を入れて水で溶いて焼いただけのなんかわからんものをつまみに、家にあった安いワインを飲んでいるからである。

特に味のマッチ度はなく、なんなら不味いレベルである。

でもワインはワインで美味しいし、この粉物はそれはそれでうまい。

 

ご飯の時にファンタグレープとかを平気で飲めるような人間なので、あんまり気にならない。

多分こういうのに気を使って生きてる人にはめちゃくちゃ不愉快というか、いや食えんやろ!みたいな事案なんだろうなと思う。

 

何が言いたいかというと、あんまり味の組み合わせとかを気にしてないということである。

 

うまいもんはうまい。

 

子供とコーヒーの話

 

高校生くらいからブラックでもコーヒーを飲めるようになった。

 

別に大して美味しいとかそういうのでもなく、家で簡単に飲めるのが麦茶か緑茶かコーヒーの三択だっただけで、この家に16年も住んでいたらコーヒーも飲まざるを得なくなったのだ。

 

簡単に飲む分なので、「ネスカフェ エクセラ」というインスタントコーヒーから始まった。

スプーン山盛り一杯くらいをマグカップに入れ、お湯を沸かし注ぐ。

簡単で、それなりなコーヒーが飲めた。

やはりインスタントコーヒーなだけあって、ドリップした時のような透明感はなく、ブラックのままでは風味も薄いので牛乳を少し入れて飲んでいる。

 

最近は兄弟もそれなりに大きくなってコーヒーを飲む人口が増えたので、よく貰い物でコーヒー豆を貰うようになった。

 

コーヒー豆の用意も勿論大切なのだが、美味しくコーヒーを飲むためには美味しいお菓子と共に飲むのが一番なのだ。

 

趣味でよくケーキやお菓子を買って帰るので、母とともにデザートとして少しいいお菓子を食べながらコーヒーを飲むのが楽しみの一つである。

コーヒーメーカーもあるのでいただいたり買って来たりした豆を入れてコーヒーメーカーで作って飲むのも悪くはない。

豆の方が香りも飛びにくいし挽きたてなのでとてもいい香りがする。

でも毎日やるには少し贅沢な感じがする。

 

そこで、簡単に一杯分をドリップできるコーヒーフィルターを買ってきて、粉の状態のコーヒーを使って飲むようになった。

お湯を沸かしながらマグカップに開いたフィルターを乗せ、専用のスプーンで粉を入れてドリップする。

インスタントコーヒーより少し時間はかかるが、誰かのために淹れるのは少し楽しい。

 

 

今までコーヒーの味なんてただ苦いか少し酸味が強いとかそんなことしかわからなかったのに、最近善し悪しが分かるようになった。

 

もとより酸味の強いコーヒーは苦手だった。

近所のコーヒー屋さんに手土産として豆を買いに行った時、豆を選ぶとその場で焙煎をしてくれるのだが待ち時間にその日のオススメの豆のコーヒーが出された。

 

名前は忘れてしまったのだが南国のような感じで、酸味が爽やかな香りを引き立てており軽めのローストで紅茶のようにさらりと飲むことができた。

やはりコーヒー屋さんなので、風味や香りを生かした淹れ方がとても上手なのだ。

 

風味や香りを楽しめるくらいには、コーヒーを飲むようになっていた。

 

先日も母といったカフェでランチをしたところ、ドリンクバーと称して様々な飲み物が置いてある中にコーヒーがあった。

食後に飲む癖があったので、温かいコーヒーをカップに注ぎ席に戻る。

こんなカフェのコーヒーなので安心しきっていたのだが、なんとあまり美味しくなかった。

長らく保温されていたせいか、煮詰まったような味がした。

苦味だけが強くコーヒーの香りもしない。あの吹き抜けるようなコーヒーの爽やかさは失われていた。

淹れてしまったものはしょうがないので、アレンジ用に置いてあったフレーバーシロップを淹れて飲み干した。

 

 

今までお茶に飽きた代打としてのコーヒーが、いつの間にか"いつものコーヒー"になっていた。

味など苦味だけで変わらないと思っていたものも、だんだん違いを知って好みが出てくるようになった。

 

代わりに、甘くて好きだった駄菓子が食べられなくなったり小さい時に好きだった味が分からなくなってしまった。

 

"大人"の定義はまだ分からないが、"劣化"は確実に起こってくる。

劣化ながらに楽しめる事が増えるというのも、悪くない事かもしれないと思った。

完璧主義的思想の話。

 

今回の話も特に解決やオチはありません。

 

先日の熱量の話も含めてまた私の話です。

 

まだまだ途方も無い喪失感と共に新たな消費の資源を見つけて食い漁っている最中。

 

少し前から思っていたのだが、私はどうやら

私の「好きな人」が「好きなもの」を私も好きになる

らしい。

この「好きな人」に当てはまるのは様々な容体がある。

 

例えば私の父。父の事はもちろん私の父であるので家族として大事だし好きだと言える。

だが父であると同時に"他人"という私とは違う時間を有する人間でもあるわけなので、父である彼の事しか私は知らない。

私は父の事を知りたいと思った時、彼の好きなものをまず考えた。

高校時代には父の机に並べてあるCDや本、楽譜をひたすら読み漁りいつのまにか曲の趣味のベースは父の曲の趣味に似ていた。父が好きという音楽はだいたい私も好きである。

 

このような感じに、好きな人を網羅したいが為に好きな人が好きなものを漁っていく過程で取り込まれているのが私の知見や経験であったりするのだ。

 

 

この"好きな人を網羅したい"というのは何という現象なのか。

 

 

ツイッターなどで流れてくる性格診断などをよくやる。基本的にああいうものはどのような結果であっても大抵の人に当てはまるようなことが書いてあるのでそこまであてにはしてないのだが、ある時診断結果にこう書かれていた。

 

「あなたは完璧主義者です。」

 

いや、何も完璧にこなそうとはしてないしそんな風には思ってないからこの診断は外れてるな…

などとその時は考えていたのだが、確かに。

完璧主義者といえば完璧主義者なのかもしれない。

そもそも「完璧主義者」とは何であるか。

 

完璧主義(かんぺきしゅぎ、英: Perfectionism)とは心理学においては、万全を期すために努力し、過度に高い目標基準を設定し、自分に厳しい自己評価を課し、他人からの評価を気にする性格を特徴とする人のこと[1][2] 。定められた時間、限られた時間の内にて完璧な状態を目指す考え方や、精神状態のことである。このような思想を持ったものや、そのような心理状態の者を完全主義者、もしくは完璧主義者(英: perfectionist)と呼ぶ。

 Wikipediaより引用

 

こういう事であるらしい。

特に私は自分に厳しい自己評価は課していないし万全を期すために努力したりもあまりしない。

しかし、圧倒的に自己の理想が高いのである。

完璧にこなす事が完璧主義者であれば、私は完璧主義的思想の持ち主だと言えなくもない。

心理学などを学んでいるわけではないのでこの方面には明るくないが、確かに言われてみればと思う。

 

私は常に他人を羨んで生きている。

例えば、お金を持っている人、バンドを組んでいる人、ディズニーにとても詳しい人、一人で海外旅行に行ける人、海外留学をしたひと、踊れる人、自分とは違う人生を歩む人。

 

それと同時に、自分もそうでありたいと考えている。こうできたら、この人よりうまく歌えれば、この人よりうまく描ければ、この人より会話できれば、この人より、この人より…

 

この他人より優れている人間でありたいという欲のために、自己を正当化しこの思考を昇華させて他人を見下して、あるいは私とは住む世界が違う人間だと思い込んで生きている。

そうでもしていないと自分がただの何も出来ない人である事実のみが残ってしまう。

 

「孤独なホワイティー」は本当に心臓の痛くなる話でした。私も何者かになりたいよ。

霊幻はそういう人じゃないので私の話とはまた別ですが。

 

何の話だったかな

 

 

 

私はPerfumeの大ファンなのだが、これまたちょっと面倒臭い方のファンであるという自覚がある。

つまり、他のファンとの馴れ合いはしたくないが誰かと共有はしたい

のである。

何故に他のPerfumeファンとPerfumeの話をしたくないのか。これには明確な理由がある。

私よりPerfumeを深く知っている人とPerfumeの話なんてしたくないのである。

 

私自身、どれだけPerfumeを知っているとかファン歴が長いとかが愛情の深さに直結するわけではないと公言するしそうだと思っている。

 

しかし、そうであったとしても依然として、自身の知識や歴より長い人は当然ごまんといるわけでそんなの気にしてもしょうがないという事までしっかり理解した上で、他のファンとPerfumeの話をしたくないのである。

所謂、同担拒否というやつであろうか。ちょっと違う気もするが。

 

簡単に言うと、「なんか負けた気がする」のである。

この「負けた気がする」と言う現象は私の中では多々起こっているのだ。

 

知り合いがインスタに私の友達と遊びに行ってきたよなんて楽しい写真をアップしたときには私も行きたかったなと思う。しかし実際誘われたら多分行かない。

なんか美味しそうなスイーツの写真とともに幸せツイートが流れてくると「貴様ごときが幸せなんぞを噛み締めおってこのクソが!!」

心のどこかで思ってしまうのだ。

 

要するに、自分の手の届く範疇にあるような羨望が生まれた時に「なんか負けた気がする」のである。

 

そしてこの「なんか負けた気がする」現象が起きない為に好きな人の好きなものを網羅したがるのである。

 

分からない人には分からないのかもしれないが、本当にこれがよくあるのだ。

 

それと同時に、「私は私であって私の幸せは自分だけのものだし自分で手に入れるものである。」とも考えている。

 

「なんか負けた気がする」のを「他所は他所、うちはうち」理論で押さえ込んでいるのだ。

本当のところを言えば、私の知っている人や事の中で知らない事があるのがたまらなく悔しいのである。

 

全てを網羅して自分が上に立ってしまえたら、それはそれで何も知らない人達をまた羨望するのだ。

 

なんと欲深いことか。

だが、きっとこれも若さのうちなのだと思ってもいる。

 

いろんな羨望を抱えるうちに、私の頭の中に浮かぶようになったのは

「理想や憧れを、理想や憧れのままにしておくのはもったいないのではないか?」

ということである。

 

例えば、インスタに上がっていた美味しそうなスイーツを食べて幸せ

という投稿は、私も友達を連れて同じスイーツを食べて美味しかったとかなんとか言えばいいのである。

ギターを弾きたいとか弾き語りをしてみたいとかはギターを練習して弾き語りができるレベルまで上達すればいいのである。

 

そして、今持っている信条として

今より若い時はこの1秒先にも決してない、そのために今この年齢を生きるためにどうする事が最善であるか

 

すぐ出来ることはやってみる

 

意外と大人になるとこういうことができなくなるらしい。

この手の話は年上の人にすると若いね〜とか今だけだよなんて言われるのだが、

今しかないんだから若さで許されるならやるべきだ。

そう思っている。

 

完璧主義的思想による「なんか負けた気がする」事に長年苦しんできた私は、今もこの思想は変わらず私を苦しめているけれど、私にも出来ることはたくさんあるのだから兎に角手を伸ばしてみよう。

 

そう思って、先日ディズニーシーの年間パスポートを購入しました。

心の熱量の話。

オチや解決や完結はしません。

 

3年ほど前から某アイドル系ソーシャルゲームをやり続けて、思う事がある。

推しを好きでい続けられる、そのコンテンツを好きでいるテンションを保てる人達は凄いと。

私なんかは推しや好きなキャラやCPなどがあっても、一過性の熱に過ぎずどこかでプツンと途切れてしまう。

 

最近も、某サイキック系の作品にハマってしまい色んなものを漁った。

兎に角すぐなんでも調べてしまう私はまずアニメを一期から見直し、原作のWikipediaを隅から隅まで読み上げ、Pixivを漁り、公式サイトのキャラプロフィールやスタッフキャスト一覧を読み、気になるキャストの所属事務所の宣材を確認しWikipediaを読みプロフィールを確認し、公式ラジオ番組のアーカイブを見つけイヤホンを一日中してずっとラジオを聴き続けた。

Pixiv漁りは1週間毎日6時間以上やった。

 

最近になってやっと落ち着いてきたのだが、それと同時に果てしない喪失感も味わった。

その時間が無駄だったとか賢者モードとかではなく、色んなものを短期間に摂取しすぎて心が疲れたのである。

「心が疲れた」なんて昔は思わなかったのだが、今になるとこの突然何事も無かったかのようにそのコンテンツに触れなくなる現象に対して色んなことを思うようになった。

「心が疲れた」時に感じるこの喪失感は多分今までの熱量で増長した記憶や気分の穴である。

 

話は変わるが、私には彼氏がいた事がない。だから恋とか恋愛とかがどういうものであるか分からないし、彼氏がいるとどうなのかもよく分からない。

そして、俗に言う腐女子と言われるものでもある。しかし、コミケオンリーイベントに参加もしなければ誰かに生産的に二次創作物を見せていく人間でもないため、ツイッターなどで見る腐女子のお姉様方とはにわかな方向の腐女子である。単にBLが好きなだけとも言える。

さらに言うとなんとなく夢女子のような節もある。決して推しが自分の彼氏だと思っているわけでもないしそういった系統の漫画や小説が好きなわけでもない。あくまで、自分の好きなキャラを自分の好きなポジションにつけてこんな事あったらな〜と考えるのみである。その内容は誰にも言ったことはない。

 

だからなんなんだと言う話なのだが、私があるコンテンツを好きであるために消費する熱量と自分に彼氏や恋人がいないことは密接に関係があるように感じるようになった。

もちろん自分から異性にアプローチするような事はしたことがないし、そう思える相手もいない。努力不足だよとかそう言う話ではなく根本的な態度の話である。好きと言われたら自分も相手を好きになってしまう単純脳ではあるのだが。

 

また話は変わるが、

ツイッターなどに一定数いる、あるコンテンツのファンの間で有名なユーザー。

少し限定的な言い方になってしまうが、あの人達の持つ推しへの推進力や熱量は半端ないと思う。

すごいのは、長期的に推しを推していること。そして毎日欠かさずその推しについてのツイートや愛を語っていること。

私からすればそれはフードファイターのようなものであるように思う。

なぜそんなに好きでいられるのか。

私はAが好きな期間が落ち着いて次のBが好きな期間が始まるとAには全く触れられなくなる。

Bを好きな期間が落ち着いた後でやっとでAについて触れられる。

しかし、その時に全く好きでないのではなく視野に入れるものの範疇に納まっているのだ。

いつしかそれが日常の風景になり得ているのである。

こんな事を中学生くらいから続けていたために自分の中でのものの流行り廃りが激しく、高い消費と蓄えを繰り返してきたために現在こうして「心が疲れた」状態を認知する結果にあるのだと思う。

 

そして、またこの「心が疲れた」状態を忘れて次のものへ熱量を消費し始めている。