んまおの日記

特にオチや解決があるわけではありません。勢いのままに書いてそのまま公開しているので文の脈絡が飛んでいたりしますが、悪しからず。

完璧主義的思想の話。

 

今回の話も特に解決やオチはありません。

 

先日の熱量の話も含めてまた私の話です。

 

まだまだ途方も無い喪失感と共に新たな消費の資源を見つけて食い漁っている最中。

 

少し前から思っていたのだが、私はどうやら

私の「好きな人」が「好きなもの」を私も好きになる

らしい。

この「好きな人」に当てはまるのは様々な容体がある。

 

例えば私の父。父の事はもちろん私の父であるので家族として大事だし好きだと言える。

だが父であると同時に"他人"という私とは違う時間を有する人間でもあるわけなので、父である彼の事しか私は知らない。

私は父の事を知りたいと思った時、彼の好きなものをまず考えた。

高校時代には父の机に並べてあるCDや本、楽譜をひたすら読み漁りいつのまにか曲の趣味のベースは父の曲の趣味に似ていた。父が好きという音楽はだいたい私も好きである。

 

このような感じに、好きな人を網羅したいが為に好きな人が好きなものを漁っていく過程で取り込まれているのが私の知見や経験であったりするのだ。

 

 

この"好きな人を網羅したい"というのは何という現象なのか。

 

 

ツイッターなどで流れてくる性格診断などをよくやる。基本的にああいうものはどのような結果であっても大抵の人に当てはまるようなことが書いてあるのでそこまであてにはしてないのだが、ある時診断結果にこう書かれていた。

 

「あなたは完璧主義者です。」

 

いや、何も完璧にこなそうとはしてないしそんな風には思ってないからこの診断は外れてるな…

などとその時は考えていたのだが、確かに。

完璧主義者といえば完璧主義者なのかもしれない。

そもそも「完璧主義者」とは何であるか。

 

完璧主義(かんぺきしゅぎ、英: Perfectionism)とは心理学においては、万全を期すために努力し、過度に高い目標基準を設定し、自分に厳しい自己評価を課し、他人からの評価を気にする性格を特徴とする人のこと[1][2] 。定められた時間、限られた時間の内にて完璧な状態を目指す考え方や、精神状態のことである。このような思想を持ったものや、そのような心理状態の者を完全主義者、もしくは完璧主義者(英: perfectionist)と呼ぶ。

 Wikipediaより引用

 

こういう事であるらしい。

特に私は自分に厳しい自己評価は課していないし万全を期すために努力したりもあまりしない。

しかし、圧倒的に自己の理想が高いのである。

完璧にこなす事が完璧主義者であれば、私は完璧主義的思想の持ち主だと言えなくもない。

心理学などを学んでいるわけではないのでこの方面には明るくないが、確かに言われてみればと思う。

 

私は常に他人を羨んで生きている。

例えば、お金を持っている人、バンドを組んでいる人、ディズニーにとても詳しい人、一人で海外旅行に行ける人、海外留学をしたひと、踊れる人、自分とは違う人生を歩む人。

 

それと同時に、自分もそうでありたいと考えている。こうできたら、この人よりうまく歌えれば、この人よりうまく描ければ、この人より会話できれば、この人より、この人より…

 

この他人より優れている人間でありたいという欲のために、自己を正当化しこの思考を昇華させて他人を見下して、あるいは私とは住む世界が違う人間だと思い込んで生きている。

そうでもしていないと自分がただの何も出来ない人である事実のみが残ってしまう。

 

「孤独なホワイティー」は本当に心臓の痛くなる話でした。私も何者かになりたいよ。

霊幻はそういう人じゃないので私の話とはまた別ですが。

 

何の話だったかな

 

 

 

私はPerfumeの大ファンなのだが、これまたちょっと面倒臭い方のファンであるという自覚がある。

つまり、他のファンとの馴れ合いはしたくないが誰かと共有はしたい

のである。

何故に他のPerfumeファンとPerfumeの話をしたくないのか。これには明確な理由がある。

私よりPerfumeを深く知っている人とPerfumeの話なんてしたくないのである。

 

私自身、どれだけPerfumeを知っているとかファン歴が長いとかが愛情の深さに直結するわけではないと公言するしそうだと思っている。

 

しかし、そうであったとしても依然として、自身の知識や歴より長い人は当然ごまんといるわけでそんなの気にしてもしょうがないという事までしっかり理解した上で、他のファンとPerfumeの話をしたくないのである。

所謂、同担拒否というやつであろうか。ちょっと違う気もするが。

 

簡単に言うと、「なんか負けた気がする」のである。

この「負けた気がする」と言う現象は私の中では多々起こっているのだ。

 

知り合いがインスタに私の友達と遊びに行ってきたよなんて楽しい写真をアップしたときには私も行きたかったなと思う。しかし実際誘われたら多分行かない。

なんか美味しそうなスイーツの写真とともに幸せツイートが流れてくると「貴様ごときが幸せなんぞを噛み締めおってこのクソが!!」

心のどこかで思ってしまうのだ。

 

要するに、自分の手の届く範疇にあるような羨望が生まれた時に「なんか負けた気がする」のである。

 

そしてこの「なんか負けた気がする」現象が起きない為に好きな人の好きなものを網羅したがるのである。

 

分からない人には分からないのかもしれないが、本当にこれがよくあるのだ。

 

それと同時に、「私は私であって私の幸せは自分だけのものだし自分で手に入れるものである。」とも考えている。

 

「なんか負けた気がする」のを「他所は他所、うちはうち」理論で押さえ込んでいるのだ。

本当のところを言えば、私の知っている人や事の中で知らない事があるのがたまらなく悔しいのである。

 

全てを網羅して自分が上に立ってしまえたら、それはそれで何も知らない人達をまた羨望するのだ。

 

なんと欲深いことか。

だが、きっとこれも若さのうちなのだと思ってもいる。

 

いろんな羨望を抱えるうちに、私の頭の中に浮かぶようになったのは

「理想や憧れを、理想や憧れのままにしておくのはもったいないのではないか?」

ということである。

 

例えば、インスタに上がっていた美味しそうなスイーツを食べて幸せ

という投稿は、私も友達を連れて同じスイーツを食べて美味しかったとかなんとか言えばいいのである。

ギターを弾きたいとか弾き語りをしてみたいとかはギターを練習して弾き語りができるレベルまで上達すればいいのである。

 

そして、今持っている信条として

今より若い時はこの1秒先にも決してない、そのために今この年齢を生きるためにどうする事が最善であるか

 

すぐ出来ることはやってみる

 

意外と大人になるとこういうことができなくなるらしい。

この手の話は年上の人にすると若いね〜とか今だけだよなんて言われるのだが、

今しかないんだから若さで許されるならやるべきだ。

そう思っている。

 

完璧主義的思想による「なんか負けた気がする」事に長年苦しんできた私は、今もこの思想は変わらず私を苦しめているけれど、私にも出来ることはたくさんあるのだから兎に角手を伸ばしてみよう。

 

そう思って、先日ディズニーシーの年間パスポートを購入しました。